星野源が2025年5月14日にリリースした6thアルバムGen🛒楽天の2曲目に、この曲は置かれている。MAD HOPE🛒楽天——アルバム発売から時間が経ったいま聴き返すと、この曲は「収録曲のひとつ」ではなく、あのアルバムの世界観そのものを圧縮した設計図だったことがだんだんわかってくる。
順位や再生数の話は後回しでいい。この曲は、意味を先に置かず、音の隣に単語を置いていった結果として意味が立ちのぼる、という星野源の新しい作り方を最初に世に問うた一曲だ。だから何度聴いても輪郭が変わる。今日の自分にしか聴こえない意味が毎回、少し違う。
この曲の要点
- 2025年5月14日発売のアルバム『Gen』(星野源6thオリジナル・アルバム、前作『POP VIRUS』から約6年半ぶり)2曲目に収録。
- 作詞・作曲は星野源とLouis Cole。参加はLouis Cole(ドラム)、Sam Gendel(サックス)、Sam Wilkes(ベース)。編曲は星野源。
- ショート版は先行して発表されており、Netflix番組『LIGHTHOUSE』のオープニング曲として耳にした人も多い。アルバム収録版はフル・バージョンとしてほぼ別物に更新されている。
- 2025年5月〜開催の全国アリーナツアー「Gen Hoshino presents MAD HOPE」のタイトルにも採用された、アルバムの象徴曲。
- MV(監督:ARuFa)は2025年7月24日にプレミア公開。2026年4月22日にはツアーの映像作品もリリースされた。
「タイトルが先に出来た」曲——後から意味が追いついてくる設計
この曲を後追いで読み直すいちばんの手がかりは、星野本人がラジオで語っていた作り方だ。ニッポン放送『星野源のオールナイトニッポン』で本人は、Mad Hopeというタイトルが先に出来て、あとから言葉を並べたという趣旨のことを話している。文章として成立させる気は最初からない。単語だけが並んでいて、それでも全体で聴くと意味が立ちのぼる——そういう歌を作りたかったと。
この作り方は、これまでの星野源の作詞法とは明確に違う。『恋』や『SUN』や『喜劇』は、意味の骨格が最初にあって、そこにメロディが乗っていた。要するに、翻訳可能な歌だった。ところが「MAD HOPE」は、翻訳を拒否する。単語のひとつひとつは意味を持っているのに、繋げても文にならない。この差は大きい。ポップスの歌詞の常識では、これは”難解”に振れるはずのやり方だ。
ところが実際に鳴っている音は難解じゃない。むしろ気持ちいい。Louis Coleの跳ねるドラム、Sam Gendelのぼやけたサックス、Sam Wilkesのしなやかなベース——この3人の音が、単語の意味を「意味以前」まで戻してくれるからだ。単語がそのままリズムの一部として耳に入ってくる。だから、意味は後から追いついてくる。今日は「希望」だけが耳に残った、明日は別の一語だけが残った、ということが平気で起きる。
ここが後追いで見えてくる補助線だと思う。当時の一聴目、私は正直、Netflixのオープニングで流れた短いバージョンを聴いて「星野源にしては掴みどころがないな」と感じた。ところがアルバム版のフル尺で聴くと、掴みどころがないのが仕様だとわかる。掴ませないことによって、聴くたびに掴み直させる。長く効かせる曲の作り方だった。
Louis Cole / Sam Gendel / Sam Wilkesという人選が意味すること
参加ミュージシャンの3人は、いまのUSインディー〜ジャズ〜ビートミュージックの境界を跨いで活動している人たちだ。Louis ColeはKNOWERの片割れで、ドラマー兼シンガーソングライター。Sam Gendelは即興と加工を同じ手つきで扱うサックス奏者。Sam Wilkesはベーシストで、Gendelとのデュオ作でも知られる。3人ともジャンルの枠外にいるプレイヤー、と言っていい。
この人選は、星野源の後追いの読み方を大きく変える。彼は『POP VIRUS』の頃までは、STUTSやPUNPEEを筆頭に、日本のヒップホップ/ビートメイカー文脈と接続することで自分の音を更新してきた。ところが『Gen』では、Louis Cole、Cordae、DJ Jazzy Jeff、UMI、Camilo、Lee Youngjiと、参加者の座標がぜんぶ日本の外にある。「MAD HOPE」はその最初の宣言みたいな曲だ。
Apple Musicのライナーで星野本人は、Louisにドラムを叩いてほしいものが出来たのでデモを送り、ロサンゼルスのLouisの家で追加のドラムを録った、という趣旨のことを話している。この、家に行って録る、という距離感が大事だ。フィーチャリングという言葉が持つ「呼んで参加してもらう」より、もう一段深い。日本の音楽シーンの中央から手を伸ばす、ではなく、向こうの現場に自分が入っていく感覚が音に出ている。
音を細かく聴くと、Aメロのドラムはハイハットの粒がやや遅れて叩かれていて、これがLouis特有の”崩れ”の輪郭だ。ここに星野の打ち込みトラック(鍵盤を軸にDAWで組んだ、と本人が語っている作り方)が重なると、生と打ち込みの境目が曖昧になっていく。Sam Gendelのサックスは、旋律を吹くというより、鳴らして減衰させることで空間の湿度を作っている。Sam Wilkesのベースはメロディに寄り添うのではなく、時々メロディを追い越す。
Netflix『LIGHTHOUSE』のオープニングだった、という記憶からの解放
この曲を最初に耳にした場所は、多くのリスナーにとってNetflix『LIGHTHOUSE』のオープニングだったはずだ。星野源と若林正恭の対話番組の顔として、あのショート版は機能していた。だから当時、「MAD HOPE」は”あの番組の曲”として聴かれていた面がある。
アルバム『Gen』が出て、フル版がリリースされて、そこから2025年のツアーのタイトルにも冠されて——という順番を経ていま聴き直すと、番組のオープニングという記憶からこの曲はすっかり離れている。むしろ逆に、あの番組で示されていた「対話によって内側のよくわからないものを言葉にしていく」というテーマが、この曲のやり方(単語だけを並べて意味を立ち上げる)と地続きだったことが見えてくる。
『LIGHTHOUSE』で二人は、明快な結論を出す会話をしなかった。単語みたいな短い言葉が交わされて、それが積み重なって、番組後半でようやく感情の輪郭が浮かんできた。「MAD HOPE」の作り方はあの番組の会話にそっくりだ。当時は番組のオープニングとして機能する曲、として聴いていたが、いまは「番組と同じ思想で作られた曲」として聴ける。順番が逆になった。
『POP VIRUS』からの6年半——ダンスミュージックから逸脱した先
前作『POP VIRUS』は2018年12月。『Gen』が2025年5月14日。この6年半のあいだに星野源に何が起きたのかを、この曲は音で語っている。
『POP VIRUS』までの星野源は、ダンスミュージックの人だった。細野晴臣以降のイエロー・マジックの系譜、日本のブラックミュージック受容の最良の更新者、として位置づけられていた。踊れるビートの上に、意味のある歌を乗せる。それを日本語で成立させることが、彼の主戦場だった。
「MAD HOPE」は、そのフォーマットから半歩ずれている。踊れなくはないが、フロア向けじゃない。歌ものだが、意味を伝えるための歌じゃない。ダンスミュージックのフォームは残っているのに、機能が違うものになっている。私の耳の勝手な整理で言うと、この曲でようやく星野源は”ダンスミュージックの外”に足を踏み出した。歌謡曲の外、Jポップの外、というより、自分がずっと拠り所にしてきたブラックミュージックのフォームの外だ。
2020年の外出自粛期間に自宅でDAWを使ったトラック制作を始めた、と本人は語っている。その5年間の内向きの試行錯誤が、フィジカルなセッション(Louis Coleらとの共演)と接続した瞬間の音、と読める。宅録の内省と、他者との即興が同じ曲の中で溶けている。ここまで来るのに6年半かかった、と考えるとつじつまが合う。
ツアータイトルに冠された、という事実の重さ
2025年5月から始まった全国アリーナツアーの名前は「Gen Hoshino presents MAD HOPE」。アルバムタイトルの『Gen』ではなく、この曲名がツアーの看板になっている。
これは実務的にも意味のある選択だ。ツアー名は、その期間の星野源が何をやっている人なのかを、いちばん短く言い切るコピーになる。『Gen』というアルバムタイトルは「本人の名前」以上の意味を持ちにくい。「MAD HOPE」なら、二語でこのツアーの姿勢が伝わる。狂った希望、破れた希望、あるいは希望という言葉そのものに対する疑いと更新——どう訳しても、簡単に消費できない語感がある。
ツアーは愛知・Aichi Sky Expoから始まり、台北・上海・ソウルを回るアジア公演を挟んで、京セラドーム、Kアリーナ横浜の追加公演まで全公演即日ソールドアウト、と発表されている。2026年4月22日には大阪城ホール公演の映像作品もリリースされた。この曲のタイトルが、6年半ぶりのアルバムを携えたツアーの顔として一年半近く使われ続けている、という事実は重い。数字より、この採用のされ方がこの曲の評価だと思う。
MV(監督:ARuFa)が示したもうひとつの読み方
2025年7月24日にプレミア公開されたMVは、監督がARuFa。Webライター/動画クリエイターで、星野源とは長く親交がある人物だ。オザケンや小袋成彬のMVを撮る映像作家ではなく、インターネットの言葉を最前線で扱ってきた書き手を監督に据えた、というのが面白い。
MVの内容についてはネタバレになるので詳細は伏せるが、方向性としては奇想天外でミステリアスな仕上がりだと各媒体が報じている。歌詞の作り方(単語を並べる/文にしない)と、ARuFaの得意な、意味を積み上げずに情景を積み上げるやり口が、素直に噛み合っている。作詞法と映像演出が同じ思想で作られている、と後追いで気付くのは気持ちいい。
聴きどころ3点
- Aメロのドラムの”わずかな遅れ”——Louis Cole特有のハイハットの粒立ちで、生ドラムなのに打ち込みのようにも聴こえる。この揺らぎが曲全体の”意味の輪郭がぼやける感じ”の下敷きになっている。
- サックスが旋律を弾かない——Sam Gendelの音は、メロディの提示より空間の湿度作りに使われている。ここに耳を向けると、この曲がジャズやポップスのフォーマットからどれくらいはみ出しているかがわかる。
- 単語だけで進む歌の”つなぎ”——文にならない言葉の連なりが、フレーズの切れ目でどう繋がっているか。意味ではなく、母音の連なりと呼気の切れ目で音楽が進んでいく設計になっている。
どう聴かれているか——夜、ひとりの部屋で、何度も
この曲は「朝の曲」ではない気がする。少なくとも私は、朝の支度中にこの曲を再生することがない。この曲が効くのは、たぶん夜、部屋の照明を半分落として、次の日のことを考えたくないけど寝るのは早い、みたいな時間だ。
単語だけが並ぶ歌詞は、意味を追う疲れから聴き手を解放する。同時に、意味を全く放棄させるわけでもない。だから、脳の一部だけを起こしておきたい夜の時間帯に、この曲は妙にフィットするように設計されている——という気がする。使い方の統計みたいな話ではなく、単に作りからそう読める、というだけの話だが。ファンの人はたぶん、それぞれの「この曲が効く時間帯」を持っているんじゃないかと思う。
解釈が分かれる論点——「MAD」をどう訳すか
この曲について書いていて、最後まで書き手として決めきれない論点がひとつある。タイトルの”MAD”を、狂気の意味で取るか、怒りの意味で取るか、あるいは「めちゃくちゃに」という強調で取るかだ。
星野本人は、少なくとも公になっている発言の範囲では、どれと決めていないように見える。単語を並べる作詞法自体が、意味を一つに固定しないための設計なのだから、タイトルもそう扱われるべきだと思う。ただ、ツアーの現場でこの曲が最後の方で演奏されるとき——大阪城ホールの映像作品を観たファンなら知っているはずだが——空間の温度は「狂気」よりは「怒りに近い希望」の方に振れているように、私には見えた。ここは聴く人によって割れるはずで、割れていい論点だ。あなたの「MAD」の訳を、いつか誰かと話してみてほしい。
入門動線
この曲から星野源の”6年半のあいだの変化”を追いたければ、まず同じアルバム『Gen』から「Eden (feat. Cordae, DJ Jazzy Jeff)」へ。海外との協業のもうひとつの形が見える。もう一段深く潜るなら、Louis Coleのソロ作『Quality Over Opinion』を。この曲のドラムがどこから来たのかがすぐわかる。逆に、意味のある歌詞を書いていた頃の星野源に立ち戻りたければ、前作『POP VIRUS』を通しで。同じ人が作ったとは思えないくらい別物で、その距離こそが、この6年半だ。
まとめ——この曲は「更新の設計図」だった
いまの位置から振り返って、いちばん強く思うのは、「MAD HOPE」はアルバムの中の一曲というより、星野源が次の10年をどう作っていくかの設計図だったということだ。意味を固定しない作詞法。海外プレイヤーとの家レベルの距離感。ダンスミュージックのフォームから半歩ずれること。この3つを同時に成立させた最初の曲が、これだった。
ヒットチャートの順位は、この曲の場合そんなに重要じゃない気がする。この曲は、順位の座標軸ではなく「今後の星野源が何を作るか」を決める座標軸の上に置かれているからだ。ファンからしたら、いま聴き返して「ああ、あの時この曲がここに置かれていた意味は、こういうことだったのか」と何度でも読み直せる。そういう曲は、実はそんなに多くない。
「MAD HOPE 星野 源」の関連作品
※本セクションは楽天市場の商品情報(アフィリエイトリンク)です。
「希望」という言葉を、どう2025年に置き直したか
もうひとつ、後追いで見えてくることを書いておく。この曲のタイトルには”希望”という言葉が入っている。2020年代前半、ポップスの中で”希望”という言葉は、正直、使い減りしていた。パンデミック以降、あまりに多くの曲が希望を語りすぎたせいで、この単語には手垢がついていた。
星野源はそこに”MAD”を1語つけた。狂った希望、と言ってしまうと重いが、要するに”素直じゃない希望”だ。ストレートに希望を歌うことがもう出来ない場所に立って、それでも希望という単語を捨てない。この距離の取り方が、この曲を2025年の曲にしている。当時のインタビューで本人がここまで直接的に言っていたわけではないが、6年半のあいだの日本の空気を思い出しながら聴くと、この距離感は無視できない。
ここも解釈が分かれるところで、素直に「MADな希望=壊れかけでも持ち続ける希望」と読むファンもいれば、「希望という言葉に対する皮肉」と読むファンもいるだろう。どちらも正しい、と作り手が言えるように、この曲は組まれている。それが、意味を固定しない作詞法の実務的な効き目だ。

コメント