2019年10月、星野源のEPSame Thing🛒楽天に収められた一曲、さらしもの (feat. PUNPEE)🛒楽天。当時は「星野源、初ラップ」の見出しでニュースが走った。あれから時間が経った。いま改めてこの曲を聴くと、当時の紹介では触れ切れなかった意味が、いくつも輪郭を持ち始めている。
『さらしもの』は「国民的」の重さを引き受けたまま、それをラップで軽くする方法を試した曲だと今なら言える。この記事は、その補助線を静かに引いていく試みです。
この曲の要点
- 2019年10月14日リリースのEP『Same Thing』収録曲(4曲入り)
- 星野源とPUNPEEの共作。星野源本人がラップに挑んだ初の楽曲
- 作詞はPUNPEE・星野源、作曲はRascal・星野源・PUNPEE。プロデュースはRascal, PUNPEE & 星野源
- ミュージックビデオはオオクボリュウが監督し、2020年3月に公開された
- 前作アルバム『POP VIRUS』(2018)の直後に位置する、キャリアの転換期の作品
「初ラップ」の一言では足りない、2019年秋の位置取り
結論から書く。『さらしもの』は「星野源、初ラップ」というトピックだけで語ると、大事な半分を取りこぼす。もう半分は、「星野源が国民的存在になったあと最初に選んだ音楽的な出口」という位置取りの話だ。
2016年に『恋』が跳ねて、2018年にはアルバム『POP VIRUS』が出た。ドームツアーの規模もそこで一段上がった。『POP VIRUS』は完成度の高い作品で、日本語のポップスとしてほぼ理想形を提示していた。だからこそ、その次に何をするかは相当に難しい局面だったはずだ。同じ路線をもう一段磨いて出してもよかった。でも、そうはしなかった。
選ばれたのは4曲入りのEPという小さめのフォーマット。しかもタイトル曲『Same Thing』はSuperorganismとの共作で全編英語詞、『さらしもの』はPUNPEEと組んでラップに挑む、という、明らかに「大きい曲を作りに行っていない」構成だった。この選択が持つ意味は、当時よりも今のほうがはっきり見える。国民的なフィールドで戦うことと、狭くて深いフィールドで遊ぶことを、意識的に分けにいった曲。それが『さらしもの』だと思う。
正直、2019年当時はそこまで読めていなかった。「面白いことやってるな」で通り過ぎた記憶がある。今聴き直すと、「あの時点でこの選択をしていたのか」と唸る。
PUNPEEという相手を選んだことの意味
『さらしもの』でPUNPEEを迎えたのは、単に「日本語ラップの第一線の人」を呼んだ、では説明が足りない。PUNPEEの仕事の質、たとえばソロ作『MODERN TIMES』(2017)や客演、DJの選曲、ラジオでの語り口を思い出すと、彼は「有名であることの気恥ずかしさ」を扱わせたら一等地にいる人だ。自意識を茶化しながら、突き放さない。自分を主役の位置に置きすぎない。
星野源はその時期、まさに「有名であることの気恥ずかしさ」の真ん中にいた。CMで顔を見ない日がなく、ドラマも当たり、「国民的」のラベルを剥がしにくい状態。ここでPUNPEEと組む、というのは相性のマッチング以上に、精神的な補助線を借りる作業だったのではないか。ひとりで抱えたら重すぎるモチーフを、二人で分け合うことで軽くする。
作曲クレジットにはRascalの名前も並ぶ。PUNPEEの実弟でPSGのトラックメイカー。この座組みが、単発の話題作りではなく、腰を据えたヒップホップ的な現場として設計されていたことがわかる。
後追いで気づくのは、この時期の星野源が「誰と作るか」を明らかに変えたということだ。Superorganism、PUNPEE、Tom Misch。EP『Same Thing』は全4曲のうち3曲が国内外の他アーティストとの共作で、それまでのバンド中心の作り方から、コラボレーションを軸にした運用に舵を切っている。今の目で見ると、これはコロナ禍を挟んで加速する彼のプロダクションの変化、つまりリモート越しの制作、国外の音とのハイブリッド、その助走に見える。
サウンドを聴き直す 低音の設計と歌の距離
『さらしもの』のサウンドは、聴くたびに設計の細かさを再発見する種類の曲だ。まずベースが太い。PUNPEE本人がラジオで低音のミキシングに言及していた通り、ここで鳴っている低音は「J-POPの平均」より確実に一段深い。イヤホンより、少し腰のあるスピーカーで聴くと化ける。
ドラムはタイトなブーンバップ寄りで、拍を詰め込まない。すき間がある。星野源の歌はいつもの伸びやかなメロディよりも、話しかけるトーンに寄っていて、ラップというよりトーキングとメロディの間を行き来している。無理に「ラップらしく」寄せていないのが、いま聴くと正解だったとわかる。初挑戦で「らしさ」に寄せに行くと、たいていちぐはぐになる。ここでは寄せていない。
PUNPEEのヴァースが入ってくると、声の距離感がすっと変わる。マイク・プレゼンスが違う。同じトラックの上で、二人が違うレイヤーに立っている感じ。これは狙って作られたコントラストで、「外側にいるスター」と「内側から声を掛ける相手」の関係を音で描いている。歌詞に踏み込まなくても、この関係性は音の位置だけで伝わってくる。
コーラスのハーモニーの重ね方も丁寧だ。分厚くしていない。透けている。『POP VIRUS』期のリッチな音像とは意図的に差をつけていて、EPの他曲『Same Thing』の派手さと並べると、こちらは「小声の曲」として設計されていることがはっきりする。
テーマの読み直し 「見られること」の側から書かれた歌
『さらしもの』というタイトル自体、ずっと引っかかる強度がある。当時は「ポップスターの自嘲」みたいな読み方で通じていた。今読み直すと、もっと広い射程で書かれていたことに気づく。
この曲のテーマは、「見られること」の側にいる人間のリアリティだ。有名人だから成立する話ではない。SNSの時代、誰もが多かれ少なかれ「見られる側」にいる。承認と消費の目線に晒される感覚、そこで自分をどう保つか。このテーマは2019年より2024年、2025年のほうがむしろ切実になっている。時代のほうが曲に追いついてきた、と言ってもいい。
星野源はこの後、『うちで踊ろう』(2020)で完全に別の文脈に入っていく。パンデミック下の「見る/見られる」の急激な変質を、彼はほとんど無防備な姿で受け止めることになる。あのタイミングで『うちで踊ろう』を出せた土台には、『さらしもの』で「見られること」を扱った経験があったのではないか、と後から辿ると思えてくる。因果は証明できないけれど、順番として綺麗すぎる。
キャリアの中の位置 『POP VIRUS』の後、『喜劇』『不思議』の前
時系列で並べると、この曲の位置ははっきりする。2018年『POP VIRUS』でひとつのピークをつくり、2019年『Same Thing』で軌道を少しずらし、2020年以降『うちで踊ろう』『創造』『不思議』『喜劇』と、シングル単位で世界と関係を結び直す時期に入っていく。
この流れの中で『さらしもの』は、「アルバム的完成」から「シングル/EPで動く運用」への切り替えポイントに見える。以降の楽曲がタイアップやゲーム、ドラマといった外側の文脈と個別に結び直されているのに対して、『さらしもの』はまだ内向きで、自分の足場の点検をしている。だから今聴くと、その後の身軽さの土台が用意されている曲、として響く。
ファンが『POP VIRUS』の直接の続きを期待していたところに、この曲が置かれた意味は大きい。予想を裏切る形で、しかし別の方向へちゃんと進んでいる、と証明した一曲。裏切りの質が誠実だった、と言えばいいか。
2019年秋の日本の音楽シーンの中で
『さらしもの』を今の位置から読むには、2019年10月というタイミングの日本の音楽シーンも一緒に思い出したい。ストリーミングの浸透が本格化していく端境期で、アルバム単位より曲単位で世界と接続する感覚が現場でも一般化しつつあった。EPという4曲入りのフォーマットは、この空気にきれいに合っていた。フルアルバムほど重くなく、シングルより語れる余白がある。
この時期、日本語ラップは商業チャートの上でも存在感を強めていた。星野源のような、いわゆるバンド出身/シンガーソングライター文脈の作家が、日本語ラップのフィールドの人と本気で組む例はまだ少なかった。今から見ると当たり前に思えるコラボの形も、当時はまだ実験の余地が大きかった。『さらしもの』は、その空隙にちょうど置かれた曲だ。
個人的な話をすると、2019年の10月にこの曲が出たとき、僕は「PUNPEEに客演を頼むところまでは想像できたけど、本人が本気でラップするのは想像していなかった」というのが第一印象だった。想定の一段先を出してきた。あの驚き方は、当時のリスナーの多くが共有していたと思う。
MVがもう一枚めくった意味
ミュージックビデオはオオクボリュウが監督した。公開は2020年3月。楽曲リリースから約半年遅れての公開で、この時期はちょうど世界的にライブ・イベントが止まりはじめた頃だった。偶然のタイミングだが、「見られる/見せる」の意味が急激に変質した瞬間にこのMVが出た、という事実は、後追いだからこそ効いてくる。
アニメーションの手触りは、実写のアーティスト映像とは違う匿名性を持っている。この曲のテーマと相性がいい。実写で顔を映してしまうと、「星野源本人の話」に閉じてしまうリスクがあった。オオクボリュウの絵は、それをもう一段抽象化して、「誰の物語にも接続できる余白」に開いた。この判断の見立ての良さは、今のほうがよく分かる。
この曲は、どんな時間に効くか
『さらしもの』は、深夜に一人で聴く曲として設計されている気がする。派手なフックで昼を突き抜けにいく曲ではない。作業BGMには少し情報量が多くて、通勤の高速な情景にも合わない。金曜の23時、電気を落として、少しだけ音量を上げたときに、この曲のディテールは初めて全部聴こえる。
星野源の代表曲、たとえば『恋』『アイデア』『喜劇』が「日中の曲」だとすると、『さらしもの』は「夜の曲」の側にいる。同じアーティストの中に両方あることが、いま振り返って重要だと思う。片方だけだと、彼のディスコグラフィはもっと平板に見える。
もう一つ。この曲は、聴き手が「見られる側の疲れ」を抱えているときに、静かに横に立ってくれる種類の曲だと感じる。励まさない。共感しすぎない。ただ、「同じ場所に立っている人がいる」と示す。この距離感が、代表曲群では見えにくい星野源の別の顔で、ファンほど繰り返し戻ってくる場所になっているのではないか。
聴きどころ3点
- 低音の設計: ベースとキックの深さが平均的なJ-POPより一段太い。スピーカーで聴くと化ける。
- 二人の「声の距離」: 星野源のトーキング寄りのラップと、PUNPEEのマイクプレゼンスの差が、そのままテーマの構造になっている。
- すき間の多いビート: 詰め込まないブーンバップ的な質感。前後の楽曲『Same Thing』の派手さと聴き比べると、意図的な小声設計だとよくわかる。
解釈の余白 「さらしもの」は誰のことか
この曲を巡って、ずっと意見が割れてきた論点がある。『さらしもの』は誰の話か、という問いだ。星野源本人の告白として読むのか。PUNPEEとの共作だから両者の話として読むのか。あるいは、聴き手それぞれの「見られる側の自分」に接続する話として読むのか。
正解はたぶんない。むしろ、正解を決めない設計になっている曲だと思う。共作クレジットも、MVの匿名的なアニメーションも、「誰の物語か」を固定しない方向に働いている。だからこそ、時間が経ってから聴き直すと、そのときの自分の状況に合わせて解釈が更新される。5年前に聴いたときの感想と、今の感想が違っていていい。この開かれ方が、この曲を長く残しているのだと思う。
後追いの補助線 本人のインタビューを重ねて
星野源はこの前後の時期に、何度も「作り方を変えたい」「一人で抱え込みたくない」といった趣旨の発言を各メディアでしている。当時はソロアーティストのモード変更として読まれることが多かった発言だが、今読み直すと、より切実な自己開示に見える。ドームクラスの規模と国民的な認知は、担う側の心身に相応の負荷を掛ける。それを、彼は隠さず語ってきた作家だ。
『さらしもの』の共作クレジットは、その言葉の実装だと読める。作詞に二人の名前、作曲に三人の名前、プロデュースに三人の名前。単独作家ではない構造を、楽曲そのもので体現している。孤独に降りていくためではなく、孤独を分け合うために作った曲。この視点は、当時の紹介記事にはあまり出てこなかった読み方だと思う。
もう一つ後追いで気づくのは、この曲以降、星野源の楽曲には「客演」や「共作」のクレジットが珍しくなくなったことだ。『不思議』の作詞・作曲は本人単独だが、プロダクションの現場は明らかに開かれている。『喜劇』もそうだ。『さらしもの』は、その開放のスイッチを最初に押した曲、として位置付けられる。
入門動線
『さらしもの』からもう一歩踏み込むなら、まずEP『Same Thing』の他3曲を通しで聴きたい。Superorganismとの表題曲、Tom Mischとの共作、そして『Ain’t Nobody Know』『私』の並びの中で、『さらしもの』の位置がより立体的に見えてくる。
次にPUNPEE側の仕事へ。ソロ作『MODERN TIMES』(2017)を聴くと、『さらしもの』でなぜ彼が相手役として最適だったのかが腑に落ちる。自意識と機知の扱い方が、星野源のこの曲の温度と地続きだ。星野源の側では、前作アルバム『POP VIRUS』を並べて聴くと、「完成された作品」から「共作で開いていく運用」への切り替わりが、耳で追える。
星野源のディスコグラフィで最も”隙間”のある曲
もう一つ、後追いで発見したことがある。星野源の代表曲群と比べたとき、『さらしもの』は圧倒的に”隙間”が多い。音の隙間。歌唱の隙間。テーマの余白。
『恋』はギターとホーンとリズムがフルで鳴る。『アイデア』はセクションごとに音像が転換する情報過多の設計。『喜劇』は温度が最初から最後まで高い。どれも隙間より充填の音楽だ。『さらしもの』は違う。ビートは詰め込まない。歌はメロディの真ん中を狙わない。歌詞にも直接の断定を避ける言い回しが多い。
この”隙間の多さ”が、繰り返し聴いても飽きない理由でもあり、シングルとして跳ねにくかった理由でもある。跳ねにくさは弱点ではなく、この曲の設計思想と対応している。ヒットチャートの一位を狙う曲と、10年経っても手元に残る曲は、そもそも別のプロトコルで作られている。『さらしもの』は明らかに後者の設計だ。
星野源のディスコグラフィのなかで、この”後者のプロトコル”で作られた曲はそれほど多くない。だからこの一曲がある意味は大きい。
今こそ、この曲を
2019年に出た『さらしもの』は、当時は「意外な挑戦」の枠で紹介された曲だった。今振り返ると、そこには挑戦以上の設計があった。国民的な存在になったあとの音楽的な出口を、彼はここで一度確保している。以降のシングル群の身軽さは、この一曲の腹の据わり方の上に成立している気がする。
ファンならもう何度も聴いているはずだ。それでも、今日もう一回、なるべく夜に、なるべく良いスピーカーで、頭から通して聴いてほしい。5年前に聴こえなかった音が、いくつか聴こえる。それが後追いでこの曲に戻る意味だと思ってます。

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