『Memories (feat. UMI, Camilo)🛒楽天』を、今このタイミングで聴き直している。リリース直後の熱に押されて聴いた耳と、半年経った耳では、曲の輪郭が違って見える。越境の曲、ではない。星野源の中に元からあった雑食性が、ようやく歌える相手を見つけた曲だ。
2025年5月14日にリリースされたアルバム『Gen🛒楽天』の中で、この曲は少し変わった位置にある。日本語、英語、スペイン語の三言語が同じトラックの上で重なり合う一曲。派手なシングル曲に挟まれると地味に見える。でも、聴き返すたびに手触りが変わる。そういう曲だ。
この曲の要点
- 『Memories (feat. UMI, Camilo)』は2025年5月14日発売の星野源6thアルバム『Gen』収録曲。
- 星野源が作曲・編曲・プロデュースを手掛け、アメリカのR&BシンガーソングライターUMIとコロンビアのCamiloをフィーチャリング。
- 日本語・英語・スペイン語の3ヶ国語のリリックとヴォーカルが重なる構成。
- ミュージックビデオは2025年11月3日にYouTubeで公開。もんじゃ焼き屋、カフェ、河川敷など都内近郊で撮影された。
- 『Gen』は前作『POP VIRUS』から約6年半ぶりのオリジナルアルバム。
まず、事実を整理する
『Memories』はアルバム『Gen』に収録された1曲だ。『Gen』は2025年5月14日発売、星野源にとって6枚目のオリジナルアルバムであり、前作『POP VIRUS』からは約6年半空いた。全16曲。この間隔の空き方は、彼のキャリアを追ってきた人ほど「長かった」と感じるはずだ。ドラマの主題歌、映画、俳優仕事、ラジオ。星野源というアーティストは、この6年半で音楽の外側の存在感を大きく育てた。
その中に、この『Memories』は置かれている。フィーチャリングは2人。アメリカのシンガーソングライターUMIと、コロンビア出身のシンガーソングライターCamilo。星野が作曲・編曲・プロデュースを担い、3人が日本語・英語・スペイン語の3ヶ国語で歌う。ミュージックビデオは2025年11月3日にYouTubeで公開された。撮影は都内近郊。もんじゃ焼き屋、カフェ、河川敷。派手な演出はなく、3人が並んでいる時間そのものが素材になっている。
そう。事実だけ並べるとシンプルだ。多国籍コラボの1曲。ただ、この「シンプルさ」が今回の肝なので、まずここを踏まえておきたい。
越境コラボ、と呼びたくない理由
「日本語・英語・スペイン語の3ヶ国語」と紹介されると、どうしても「グローバル進出」「越境ポップ」といったキーワードが顔を出す。個人的には、この言い方はこの曲にあまり似合わないと思ってる。理由は2つある。
1つ目。星野源はもともと雑食のアーティストだ。SAKEROCKでのインストの記憶、ソロ初期の弾き語りとファンクの往復、『POP VIRUS』でのブラック・ミュージックの咀嚼、『不思議』『喜劇』での歌謡曲的な芯。作品ごとに引き出しを取り替えてきた人が、多国籍のシンガーを呼ぶこと自体は、キャリアの延長線上にある。急に世界を向いたわけではない。むしろ、内側に元からあった雑食性を、他人の声で外に出しただけ、と読める。
2つ目。曲そのものが「越境」を主張していない。UMIのR&B的なフレージングと、Camiloのラテン・ポップの跳ね方は、それぞれ別ジャンルの語彙だ。ふつうに組めば衝突する。星野のトラックはそこを「グルーヴィーでスムーズな楽曲」(レーベル資料)と説明されるとおり、なめらかに縫っている。派手な合流点を作らない。3つの声が、同じ河原に別々に座って喋っているような密度。MVの撮影場所が河川敷だったのは、たぶん偶然ではないと思ってる。
だから、越境コラボ、ではない。もっと近い言葉を探すなら、「顔の見える三者のセッション」だ。星野の言う「友人」という距離感が、そのまま音の作りに出ている。
プロダクションを聴く 3ヶ国語を成立させる設計
この曲、プロダクションが上手い。上手い、という言い方は雑だけど、聴き返すたびに「よく成立させたな」と感心する。3言語の同居は、扱いを間違えると「多様性を並べただけの曲」になる。ここでは、そうなっていない。
星野は2020年前後から自宅でDAWを用いたトラック制作を本格化させた、と伝えられている。『Gen』全体が、鍵盤の打ち込みをベースにした制作の質感を持つ。『Memories』もその文脈にある。生々しい生演奏の熱ではなく、部屋で組み上げられた気配のするグルーヴ。低音の締め方が乾いていて、ヴォーカルが乗る空間を広く空けている。3人の声を並べるための座席が、最初から設計されている感じ。
UMIのパートは、彼女の他作品と比べると少し落ち着いた発話に聴こえる。Camiloは逆で、ラテン・ポップ本流の跳ね方をあえて抑えて、日本語の子音の並びに寄せている瞬間がある。互いに寄せている。星野は真ん中で日本語を歌いながら、両側に隙間を作る役に徹している。プロデューサーとしての振る舞いが、歌い手としての振る舞いを兼ねてる。ここが上手い。
プレコーラスの手前で、コード進行が一瞬「あれ?」と身を捩る箇所がある。R&B的な半音の動きと、ラテンの跳ねが交差するポイント。ここが曲全体の重心で、聴くたびに耳が戻ってくる。派手ではない。でも、この一瞬を置くために全体が作られている、と感じる。
『Gen』の中でのこの曲の役割
アルバム『Gen』全16曲は、シングル曲を多く含む。『創造』『不思議』『喜劇』『Eureka』といった、単独で強い曲たちが並ぶ。星野のアルバム史上、収録シングル曲数は最多だそうだ。つまり、聴き手はすでに知っている顔で通り抜けていくことができる。
そこに、『Memories』のような「アルバム曲」が挟まる。役割は明確で、シングルの強さを一度緩めるためのクッションだ。ただ、クッションと言うと機能的すぎる。ここでの緩め方は、アルバムの空気そのものを違う場所に運んでいく。『創造』の任天堂的な高揚から、『Memories』の3人セッションに移った瞬間、リスナーの姿勢が少し変わる。前のめりから、椅子に浅く座り直す感じ。
『POP VIRUS』は、ある意味で「日本のポップスの語彙を最大化する」というテーマがあった作品だと思ってる。『Gen』は逆で、語彙をむしろ手放している。手放した先に、他人の声を招くための空席がある。『Memories』はその空席の使い方の見本だ。
後から効いてくる曲、として
星野源のキャリアには、リリース直後より、数年経ってから評価が上がる曲がある。『SUN』のような即効性の高い曲もあれば、『Family Song』のようにドラマの記憶と一緒に育つ曲もある。『Memories』は、たぶん後者に近い育ち方をする気がする。
理由はいくつかある。まず、この曲は「いま星野源が何をやっているか」の説明として、あまりに静かだ。三言語の看板を掲げているのに、看板の色は淡い。派手さがないぶん、初回のインパクトは他のシングル曲に負ける。でも、アルバム全体を何周かした後に、なぜかここに戻ってくる。そういう曲は、時間がかかって評価される。
もう1つ。この曲は、星野源の「次の10年」の入り口に置かれている可能性がある。彼はもう40代半ばのアーティストで、これから何を選ぶかで、キャリアの後半の色が決まる。国内の歌謡曲的な芯を掘り続ける道もあれば、こうやって外の音楽家と並走する道もある。『Memories』は、後者を選んだときの音の見本として、後から参照される曲になる、と思ってる。まだそう決まってはいない。でも、そう読める余地は十分ある。
この曲は、聴く時間帯で表情が変わる気がする。昼の光の下だと三者の会話に聴こえて、夜遅くにイヤホンで聴くと、逆に一人で聴いている感覚が強くなる。3ヶ国語なのに、夜の方が静かに響く。運転中よりも、家の椅子に座って何もしないで聴く方が、たぶん設計に近い聴かれ方だ。急いでいない時間のための曲、として作られている気がする。
UMIとCamiloを呼んだ意味
フィーチャリングの2人の選び方も、後から効いてくる部分だ。UMIは、アメリカのR&Bの新しい世代を代表するシンガーの1人で、日本にルーツのある背景を持つ。Camiloは、ラテン・ポップスの現行のスターの1人。ジャンルの違う2人を、星野は「友人」と呼んでいる。ここが今回の一番地味で、一番大事なポイントだと思う。
マーケティング的な文脈でコラボを組むなら、もっと数字が動きそうな組み合わせはある。でも、この2人を呼んだのは、星野の中で「話が通じる相手」だったからだ、と読める。MVがもんじゃ焼き屋やカフェで撮られている絵づらは、コラボの意味を「一緒に食事する仲」の水準で示している。派手なスタジオショットにしなかった判断は、たぶん意図的だ。
音楽業界のコラボは、しばしば「肩書きの掛け算」で語られる。米ヒットチャートの誰それ、ラテン部門の誰それ、日本のトップの誰それ。そういう言い方はわかりやすいけど、曲の中身とはあまり関係ない。『Memories』は、逆の作り方をしている。肩書きより先に、3人の距離感がある。距離感がまず定義されていて、そこに音が乗る。順序が普通と反対だ。
聴きどころ3点
- 三者の声の座席配置:星野が真ん中で日本語を歌い、UMIとCamiloが左右に隙間を持って配置される。ミックスの空間設計を意識して聴くと、フィーチャリングの成立させ方が見えてくる。
- プレコーラス手前の重心移動:R&Bの半音的な動きと、ラテンの跳ねが交差する短い区間がある。曲全体の設計はここに集約されている。
- 低音の抜き方:低音を締めつつ、ヴォーカルの周りを広く空ける処理。生演奏の熱ではなく、DAW的なグルーヴの質感が『Gen』全体を貫いていて、この曲はその見本になる。
入門動線 ここから広げるなら
『Memories』から星野源に入るのは、実はちょっと変則的なルートだ。ふつうは『恋』か『SUN』か『アイデア』から入る。でも、このアルバム曲から入って気に入った人には、逆にキャリアを遡ると発見が多いはず。
次の1曲としては、同じアルバム『Gen』の中の『Mad Hope』を勧めたい。ツアータイトルにもなったこの曲は、『Gen』の思想的な芯にいる。『Memories』のなめらかさとは違う質感で、アルバム全体の骨格を作っている。関連1枚としては、やはり2018年の『POP VIRUS』。ブラック・ミュージックを日本語のポップスに落とし込む作業の一つの到達点で、『Memories』の下敷きになっている音楽的な語彙が詰まっている。この2枚を並べて聴くと、6年半の空白の間に星野の中で何が変わったのかが、少しずつ見えてくる。
まずこの作品から聴く
- Gen — 本曲を収録した最新アルバム
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三ヶ国語という選択が意味するもの
ここでもう一つ、掘っておきたい論点がある。三ヶ国語を選んだこと自体の意味だ。日本のポップスで多言語楽曲は珍しくない。英語混じりのJ-POPは90年代からあるし、K-POPは複数言語版を並行リリースする戦略を洗練させてきた。ただ、『Memories』の三言語は、それらとはやり方が違う。
K-POP的なマルチリンガル運用は、市場ごとに最適化された「別バージョン」の思想だ。同じ曲を英語版と日本語版と韓国語版で作る。届く相手が違うからだ。一方『Memories』は、三言語を同じ1トラックの上で同居させる。分けない。分けないから、どの市場にも完全には最適化されていない。日本のリスナーは英語とスペイン語のパートを完全には理解できない。米国のリスナーは日本語とスペイン語を、ラテン圏のリスナーは日本語と英語を、それぞれ完全には拾えない。全員が少しずつ「わからない部分」を持って聴くことになる。
これは商業的に見ると効率が悪い設計だ。でも、思想としては誠実だ。全員が完全に理解できる曲を作るのではなく、全員が少しずつ「相手の言葉」を抱えて聴く曲を作る。この設計は、コラボの本来の意味に近い。翻訳して並べるのではなく、翻訳しきれない部分を残したまま同じ場所にいる。友人と外国語で話すときの、あの半分わからないまま笑っている感覚に近い。
星野が過去のインタビューで繰り返し語ってきたことに、「相手に合わせて自分の言葉を変える」姿勢がある。ラジオでもドラマでも、話す相手ごとに口調が微妙に変わる人だ。その姿勢が、三言語の同居という形で音楽の中に現れた、と読める。上から目線ではなく、下から寄せるのでもなく、真ん中に立って両方に少しずつ手を伸ばす。
アルバム時代の曲、として
もう1つ、時代的な視点を置いておきたい。『Memories』は「アルバム時代」の曲だ。ストリーミング以降、アルバムという単位が軽くなったと言われる。プレイリスト経由でシングル単位に聴かれる時代に、16曲のアルバムを丁寧に作ることの意味が問い直されている。
その中で、『Gen』は前作から6年半をかけたアルバムだった。シングルとして先行リリースされた曲を含めて16曲。この分厚さは、いまの日本のメジャーポップスではむしろ珍しい。アルバム単位で世界観を作る、という体力を持ったアーティストは、確実に減っている。
『Memories』のような「アルバム内でしか正しく機能しない曲」は、この分厚さがあって初めて成立する。単曲で切り出してプレイリストに置いても、たぶん本領は出ない。『Gen』の中盤で、シングル曲の高揚を一度緩めて、別の空気を通すために置かれている。そういう役割は、アルバムというフォーマットが健在でないと生まれない役割だ。
だから、この曲を評価するときに「再生数」や「チャート順位」で測っても、たぶん半分しか見えない。アルバム全体の設計の中で、この曲がどの位置に置かれているか。ここを見ないと、『Memories』の価値は数字の外に落ちてしまう。数字で語られない曲を、数字の外で語り続ける仕事は、たぶんまだ必要だと思ってる。
それでも残る問い
1つだけ、答えが出ていない問いを残しておきたい。星野源は、こうした多国籍のコラボを「継続」するアーティストになるのか、それとも今回の『Memories』を「単発の実験」で終わらせるのか。どちらもあり得ると思ってる。
継続する場合、彼のディスコグラフィは10年後にまったく別の風景になる。単発で終わる場合、『Memories』はキャリアの中の「静かな寄り道」として、後から愛される曲になる。個人的には、どちらでも構わない、と思ってる。曲としての完成度は、そのどちらの未来からも独立して立っているから。ただ、聴いた人がそれぞれの読みを持てる曲だという事実は、書き残しておきたかった。あなたの耳では、この曲はどっちに聴こえてますか。

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